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2013/12/20(金)
目の上のたんこぶ。
なんて言葉がありますが、
意見が違ったとしても、決して逆らえない存在がいるのが、
一般的に見れば、当たり前のことなのかもしれません。
戦国時代と言えば、ご存知の方も多いかもしれませんが、
身分が下の者が上の者を排除して、トップの座を奪い取る。
いわゆる『下剋上』が、盛んに起こりました。
しかし、徳川家康の手によって、国内は統一。
その後、家康は『下剋上』の乱れ切った流れを排除し、
上の者に下の者が、きちんとつき従うという治世の世を再構築しました。
そしてその頃、家康の側近として、
治世に大いに手腕を振るったのが、林羅山という人物。
しかし面白いことに、たばこに関しては、徳川家康は大の嫌煙家。
一方、林羅山は大の愛煙家という立場であったと言います。
この二人の主従を軸に、
日本に広がりはじめる、たばこの火種を追ってみましょう。
なんて言葉がありますが、
意見が違ったとしても、決して逆らえない存在がいるのが、
一般的に見れば、当たり前のことなのかもしれません。
戦国時代と言えば、ご存知の方も多いかもしれませんが、
身分が下の者が上の者を排除して、トップの座を奪い取る。
いわゆる『下剋上』が、盛んに起こりました。
しかし、徳川家康の手によって、国内は統一。
その後、家康は『下剋上』の乱れ切った流れを排除し、
上の者に下の者が、きちんとつき従うという治世の世を再構築しました。
そしてその頃、家康の側近として、
治世に大いに手腕を振るったのが、林羅山という人物。
しかし面白いことに、たばこに関しては、徳川家康は大の嫌煙家。
一方、林羅山は大の愛煙家という立場であったと言います。
この二人の主従を軸に、
日本に広がりはじめる、たばこの火種を追ってみましょう。

おおよそ、鉄砲やキリスト教が伝来した、安土桃山時代。
世に言う戦国時代の頃と言われています。
織田信長や豊臣秀吉が、
日本最初の喫煙者であるという話もありますが、
実は、これ自体はあまり正確な話ではないようです。
しかし、日本の権力者に初めて『たばこの種』が献上された、
という記録は残っており、
この権力者こそが、江戸の初代将軍、徳川家康なのだそうです。
これは現在、スペイン・マドリードにある王立図書館に保管されている、
『ペドロ・デ・ブルギーリョスの報告書』という文献に記述があり、
関ヶ原の戦い勝利後の1601年、
スペインのフィリピン総督・グスマンの使者役、
宣教師へロニモ・デ・ヘスス使節団が、
豊臣秀吉の「バテレン追放令」によって禁止されていたキリスト教布教と、
スペインとの友好関係を根回しを画策。
ヘススはその際に、時の権力者、家康への献上物として、
『たばこの種子』を差し出したと言われています。
実は健康オタクである家康は、たばこにも大変興味を持ったようで、
『その時、家康公は、我々が献上した個々の品物とその効果、
例えば、タバコの膏薬のこと、タバコの種子のこと、
カニャフィストゥラ(豆科の植物、果実が薬用)のこと、
その他こまごまとしたことを尋ねた。
そして、彼らはこれらの話を非常に喜び、
列席の役人に個々の薬の効能や特性を書き留めさせた』
という様子が『ブルギーリョスの報告書』に記されています。
そして、おそらく、たばこ自体は、
これより前に日本に上陸していたと考えられますが、
栽培可能な種子が、公の席に登場したのはこれが、
はじめての記録となります。
そして、この種子によって、たばこが日本に広まった。
と言いたいところですが、実はこれは大きく違うようです。
家康は、どうやら、これ以前から、
たばこという当時の日本としては奇異な存在も知っていたと思われ、
害を為すとであろうという判断から、
この種子を栽培することはなかったと言います。
現に、家康はその後も、
『たばこを吸うと、民は仕事をさぼってしまう』
という理由から、存命中にも3度の禁煙令を出したのだそうです。
そして、実は面白いことに、
関ヶ原の戦い以後、敵対していた豊臣勢の中心人物、
豊臣秀頼の母、淀君は喫煙者であったと言われ、
測らずも、嫌煙家と愛煙家の対立はここにも垣間見えたりするわけです。
そして、1603年に江戸幕府を開いた家康が、
天下を治めるための総仕上げとして、どうしても必要だったのが、
この豊臣家を無き者にすること。
そこで、一躍表舞台に躍り出たのが、林羅山という人物です。
この林羅山、朱子学派の儒学者で、漢唐の旧注から陸象山・王陽明の学、
更には諸子百家から日本の古典にも通じる、
若くして、とても知識深い人物。
師、藤原惺窩の推薦で、家康に仕えることになりました。
歴史上では、彼を『曲学阿世の徒』。
真理を捻じ曲げて、いいように物事を解釈する人物として、
毛嫌いする方もいるようですが、
その発端となっているのが、方広寺鐘銘事件。
これこそが、冬、夏の大阪の陣を引き起こし、
豊臣滅亡の引き金となった出来事です。
ことの顛末と言えば、
その頃、父、豊臣秀吉が建てた東山方広寺の大仏殿が地震で倒壊していたことから、
秀頼は、その再建をし、1614年に梵鐘(お寺の鐘)の銘を掘りました。
その時、この鐘に『国家安康』『君臣豊楽、子孫殷昌』という文字が刻まれ、
『国家安康』という句は家康の名前を、『家』と『康』に切ったもの。
『君臣豊楽、子孫殷昌』は豊臣を君として子孫の殷昌の世を楽しむという、
呪いを刻みこんだものだとして、徳川方は激怒したのです。
お気づきの通り、
豊臣方にしてみれば、全くの言いがかりです。
そして、何を隠そう、この言いがかりの解釈を行ったのが、
他でもない林羅山。
これを発端に、豊臣家は滅亡し、徳川幕府は盤石となるのですが、
この都合のよい『曲学阿世』を人は嫌うと言うわけです。
そして、この林羅山、
その都合のよい解釈ですり抜けたのかは分かりませんが、
煙草嫌いの家康の側にあっても、愛煙家としても有名。
それが高じてか、後に『羅山文集』というものを残し、
そこで、たばこやキセルやついて考察しており、
当時のたばこの様子について知る貴重な文献となっているようです。
そして、羅山はこの後、朱印船貿易によって、
改めて輸入されるようになった『たばこの種子』を、
産地に伝える役割も担っており、
現在の茨城県常陸太田市周辺で栽培されていた『水府葉』は、
種子を、当時の安養院住職、宥範上人に羅山が渡し、
金田次兵衛という村民が寺の境内で育てものがはじまりと言われます。
ちなみに、この『水府葉』は、
『国分葉』『秦野葉』ともに日本の三大名葉と言われ、
その後、とても、もてはやされたようです。
しかし『曲学阿世の徒』と称される羅山は、
家康・秀忠・家光・家綱と4代に仕えるのですが、
一度も疎まれることはなく、
制度、儀礼などの幕府の土台作りに関わり続け、
江戸幕府を支え続けた有能な人物であることは間違いありません。
ひょっとしたら、方広寺鐘銘事件における汚名でさえ、
彼は分かっていて、自らその泥を被ったのかもしれないとすら思います。
何故なら、あの慎重派の家康が重用し、側に置き続けたわけですから。
ひょっとしたら家康は、喫煙に関して、
知っていて黙認したのかもしれないですね。
『止めぬなら、止めるまで待とうホトトギス』
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